はっきり言いまして、私は人付き合いや交渉は、不器用です。
これはこれで、損しているところもありますし、相手を上手く見方にする部分でもありました。
私は職業柄、よその会社に行って売り込みに行ったりプレゼンテーションをするという
機会はあまりありません。
だから、滅多にないことをやるときは、かなり緊張しますし、できるだけ
口下手でも、相手に一番伝えたいことは、ゆっくり不器用な形で伝えるようにしております。
自然と、相手様も質問をしやすくなるでしょうし、ある意味、下手だけど一生懸命な姿を見せれば「しょうがねーな、一緒に考えますか!」と言うお情けを頂くこともあります。
また逆の立場で、営業の売り込みは、なるべく断らないようにしております。
営業の方でも、話上手、下手な方はいますが、両者ともいろいろ参考になることが多いからです。
特に、話し上手は聞き上手とも言います。
これは確かにそうだと思います。
私の場合は、それほどスマートに喋るのは得意ではないですが、下手なりに質問をしてもらうような形で説明すれば、聞く耳を持ってもらうし、私自身もやりとりをするように心がけています。
いろんなタイプの人がいて、それぞれの特徴を上手く、一つの目標にベクトルをあわせていけば
、お互いに双方向で意見交換や議論していい方向に向かうことが多いでしょう。
だから、話し下手だからとか、人見知りするとか、悪い方に捕らえて、萎縮してしまっては台無しです。
不器用とか苦手なことだけど、逆にそれをうまく使っていけば、フォローしていただける人もいますし、お互いに知り合うことで長い付き合いになる方も出てくるでしょう。
本来、人のコミュニケーションは、どんな形でもキャッチボールのように、投げて受けるを行ったりきたりの繰り返しで、より深くなっていくものだと思います。
うつに陥る人のタイプで、人とのコミュニケーションに対するネガティブ思考と思い込む人も多いです。
しかし、どんな形でも、何かゆるいボールを投げてみれば、必ず取りやすいように、投げかえってくるかもしれません。
決して萎縮する必要はないですし、ちょっとの勇気があれば、またそんな人をちょっと勇気付けられることができれば、きっと一つ一つ前向きな考えに戻ってくるでしょう。
2009年11月30日月曜日
2009年11月28日土曜日
主観的推測や思い込みの怖さ
最近あったことからの、自身への反省です。
何年も同様の仕事などをやっていると、不思議と経験等から、気がつかない主観的
推測が働くようになってきます。
いわゆる「感」と言う奴です。
もちろん「感」のセンスはブレイクスルーの為には必要なことですが、あくまでも
問題解決に当たっては、仮説や推測の域の考えです。
ですから、実際に起きている事を無視して、「感」を活用することは、リスクを伴うものです。
こうゆう場合を避けるには、経験の少ない新人さんや、違う立場の人と、事実をきちんと
客観的にみると、「感」の妄想から気づかされることがあります。
私も最近、そのようなことがありました。その人は、実験のサポート的な役割の方ですが
普段から実験で起きている現象を見られていたことから、いつもと違う現象があることにきがついて
「これは何でしょうか?」と報告していただいたのです。
正直、私も見過ごしていたところでしたし、その事実について、一緒に更に詳しく調べて見ると
なんと、主原因が大事な問題だったことがわかったのです。
そして、事実関係を優先して考えてみると、最もな対策方法に行き着くことが出来ました。
その人には、「よく気がついて報告してありがとう」と感謝の意を伝えました。
そして、自分はなんで気がつかなかったのかと言う愚かさも感じました。
それはいわゆる経験からくる視野に対する、間違った主観が邪魔をしていたのです。
歴史的に名声を上げた科学者や、優れた医学関係者に共通する点は、第六感的なひらめきもありますが、「客観的事実」を大事にしてきちんと細かく記録されている。
その上での考察から、事実と推測をきちんと分けて考えられていることです。
そして考察でのプロセスもきちんと後でわかるように記録されていることでもあります。
私は、あまりマメにノートに書く方ではないですが、考察などのプロセスや、実験記録や
気がついたことなどを、一日の中で時間を見て、メモをするようにしております。
頭の中で覚えられることも、段々厳しくなりますし、間違った主観で情報がぶれてしまうのを
防ぐ役割もあると感じております。
自分は頭が良いから、感が働くという感じの人もたまにいます。
こうゆう人ばかりですと、推論が推論を呼び、事実と全く異なる方向に論点がずれてしまうことが
しばしばおきます。
これほど間違った判断は、時には危険で過ちに気がつかず大変なことになります。
思い込みの罠に陥りそうなときは、ちょっとまて、何故?と反論を考えることで気がつくことが
ありますし、冷静になります。
目先の結果を急ぐと、時折このような間違い判断に到ることがあります。特に個人プレーで
物事をやっていると、気をつけないといけません。
「事実に勝る推論はない」改めて感じつつある今日この頃です。
何年も同様の仕事などをやっていると、不思議と経験等から、気がつかない主観的
推測が働くようになってきます。
いわゆる「感」と言う奴です。
もちろん「感」のセンスはブレイクスルーの為には必要なことですが、あくまでも
問題解決に当たっては、仮説や推測の域の考えです。
ですから、実際に起きている事を無視して、「感」を活用することは、リスクを伴うものです。
こうゆう場合を避けるには、経験の少ない新人さんや、違う立場の人と、事実をきちんと
客観的にみると、「感」の妄想から気づかされることがあります。
私も最近、そのようなことがありました。その人は、実験のサポート的な役割の方ですが
普段から実験で起きている現象を見られていたことから、いつもと違う現象があることにきがついて
「これは何でしょうか?」と報告していただいたのです。
正直、私も見過ごしていたところでしたし、その事実について、一緒に更に詳しく調べて見ると
なんと、主原因が大事な問題だったことがわかったのです。
そして、事実関係を優先して考えてみると、最もな対策方法に行き着くことが出来ました。
その人には、「よく気がついて報告してありがとう」と感謝の意を伝えました。
そして、自分はなんで気がつかなかったのかと言う愚かさも感じました。
それはいわゆる経験からくる視野に対する、間違った主観が邪魔をしていたのです。
歴史的に名声を上げた科学者や、優れた医学関係者に共通する点は、第六感的なひらめきもありますが、「客観的事実」を大事にしてきちんと細かく記録されている。
その上での考察から、事実と推測をきちんと分けて考えられていることです。
そして考察でのプロセスもきちんと後でわかるように記録されていることでもあります。
私は、あまりマメにノートに書く方ではないですが、考察などのプロセスや、実験記録や
気がついたことなどを、一日の中で時間を見て、メモをするようにしております。
頭の中で覚えられることも、段々厳しくなりますし、間違った主観で情報がぶれてしまうのを
防ぐ役割もあると感じております。
自分は頭が良いから、感が働くという感じの人もたまにいます。
こうゆう人ばかりですと、推論が推論を呼び、事実と全く異なる方向に論点がずれてしまうことが
しばしばおきます。
これほど間違った判断は、時には危険で過ちに気がつかず大変なことになります。
思い込みの罠に陥りそうなときは、ちょっとまて、何故?と反論を考えることで気がつくことが
ありますし、冷静になります。
目先の結果を急ぐと、時折このような間違い判断に到ることがあります。特に個人プレーで
物事をやっていると、気をつけないといけません。
「事実に勝る推論はない」改めて感じつつある今日この頃です。
2009年11月26日木曜日
仕分けの本質とは?
国家予算の使い道について、公の場で「仕分けWG」と言うのが行われております。
納税者の立場として、どのようなプロセスで予算配分を透明性を持って議論すること
自体は、進歩だと思います。
ただ、非常に不愉快に感じる場面も多々あります。
まず「仕分け」と言う言葉を使うことです。「仕分け」とは辞書で調べると
(1)物事をする際の区分
(2)品物を分類、整理すること
(3)簿記で貸借を区別して書き込むこと
とあります。
したがって、結論の選択示が、予めありきを前提とした判断となりますし、
人の労力が関わっている物事に対して、物を捨てるか捨てないか的な発言が目立つからです。
私の主観では、報道などで取り上げられる様子を見ていると、コスト削減のために、予算を削減することが、目的のようにも思えてしまいます。
この議論の本質は、限られた予算の中で、予定事業の目的、途中経過など、QCDP、行わない際のリスクを、長期、短期の客観的な視点で比較検討をし、優先順位を決めて予算配分をすることではないでしょうか?
むしろ、場合によっては、予算配分のウエイトを上げるべきものもあってしかるべきだと思います。
現在の議論での問題点は、裁判形式でご意見番を立てて短期間で、Yes-Noを判断することで
結果至上的な公表になっていることと、判断する人、使い道について仕分け対象となる予算を決めるプロセスを公にしていないことです。
私も、大学時代に国の研究機関でお世話になった立場なので、国家予算の慣例的なルールは
存じております。
だからこそ言いますが、国家予算に対しての一番の問題は、予算イコール決算を必達事項とする考え方です。
それが悪い解釈となったことは、予算が余ったから、優先度の低いものを買って使い切らないと、次年度予算が減らされるという慣例になったことです。
民間企業のように、利益や、実際予算よりもコスト削減できた分を、繰り越しする。
損益となった場合に、繰越しの中から補填をし、事業を中長期的視点で行うという考え方が
ないことです。
自分たちで稼いだ資金の使い道であれば、当然使い方は慎重かつ計画的になりますよね。
ところが、足りなくなったら税金で補填できるという意識があるから、どんぶり勘定になっても
決算をつじつま合わせで行えばよいということになります。
この点は、きちんと家計簿を付けるレベルで、予算-実績-内訳明細をチェックしていれば
大事にならずにわかることです。
また、それを、第三者である公認会計士で、見ていけば問題が無いはずです。
むしろ、この点をきちんと公にしてやることを優先すべきで、個別のテーマの可否はその次の段階ではないでしょうか?
大体、一度予算を計上したものを、本当にいるのか?と言われて、素直に応じるのは余程余裕があるところ以外にはありませんよ。
一度決めたら何が何でもやり通すというやり方が問題であって、今年は急遽貯金の蓄えが少ないから、計画遂行の優先順位を付けて、使える予算を見直せませんでしょうか?、回復すればまた見直しができるから、状況に協力して欲しい。
という利害を分かち合う協力の仕方が正しいかと思います。
それに議員さんの活動費用についても、きちんと倹約に努めるべきことだと思います。
納税者の立場として、どのようなプロセスで予算配分を透明性を持って議論すること
自体は、進歩だと思います。
ただ、非常に不愉快に感じる場面も多々あります。
まず「仕分け」と言う言葉を使うことです。「仕分け」とは辞書で調べると
(1)物事をする際の区分
(2)品物を分類、整理すること
(3)簿記で貸借を区別して書き込むこと
とあります。
したがって、結論の選択示が、予めありきを前提とした判断となりますし、
人の労力が関わっている物事に対して、物を捨てるか捨てないか的な発言が目立つからです。
私の主観では、報道などで取り上げられる様子を見ていると、コスト削減のために、予算を削減することが、目的のようにも思えてしまいます。
この議論の本質は、限られた予算の中で、予定事業の目的、途中経過など、QCDP、行わない際のリスクを、長期、短期の客観的な視点で比較検討をし、優先順位を決めて予算配分をすることではないでしょうか?
むしろ、場合によっては、予算配分のウエイトを上げるべきものもあってしかるべきだと思います。
現在の議論での問題点は、裁判形式でご意見番を立てて短期間で、Yes-Noを判断することで
結果至上的な公表になっていることと、判断する人、使い道について仕分け対象となる予算を決めるプロセスを公にしていないことです。
私も、大学時代に国の研究機関でお世話になった立場なので、国家予算の慣例的なルールは
存じております。
だからこそ言いますが、国家予算に対しての一番の問題は、予算イコール決算を必達事項とする考え方です。
それが悪い解釈となったことは、予算が余ったから、優先度の低いものを買って使い切らないと、次年度予算が減らされるという慣例になったことです。
民間企業のように、利益や、実際予算よりもコスト削減できた分を、繰り越しする。
損益となった場合に、繰越しの中から補填をし、事業を中長期的視点で行うという考え方が
ないことです。
自分たちで稼いだ資金の使い道であれば、当然使い方は慎重かつ計画的になりますよね。
ところが、足りなくなったら税金で補填できるという意識があるから、どんぶり勘定になっても
決算をつじつま合わせで行えばよいということになります。
この点は、きちんと家計簿を付けるレベルで、予算-実績-内訳明細をチェックしていれば
大事にならずにわかることです。
また、それを、第三者である公認会計士で、見ていけば問題が無いはずです。
むしろ、この点をきちんと公にしてやることを優先すべきで、個別のテーマの可否はその次の段階ではないでしょうか?
大体、一度予算を計上したものを、本当にいるのか?と言われて、素直に応じるのは余程余裕があるところ以外にはありませんよ。
一度決めたら何が何でもやり通すというやり方が問題であって、今年は急遽貯金の蓄えが少ないから、計画遂行の優先順位を付けて、使える予算を見直せませんでしょうか?、回復すればまた見直しができるから、状況に協力して欲しい。
という利害を分かち合う協力の仕方が正しいかと思います。
それに議員さんの活動費用についても、きちんと倹約に努めるべきことだと思います。
制御理論の考え方のススメ
私は、某エンジニアとして、メカトロニクス制御に関わることが多いです。
詳しい理論は、理工学図書にいろいろありますが、一読された方ならご存知ですが
とにかく、数学の教科書?と思う位、数学を用いた工学的アプローチを実践された
学問で、一般的に、なんのこっちゃ?と言うように思います。
私も大学の講座で受講したときは、そんな感じでした。
「そんなもの人に奨められるの?」 と疑問をもたれないように、次からは一般的な事に
照準を合わせて説明します。
簡単に言いますと、
「制御とは、狙った場所、速度、力などに対して、もの(あるいは事)を的確に追従するように、目標と現状との差を逐次確認した結果から、物事を操作することです。」
特に、目標と現状の差から操作する度合いを調整する考え方を、FeedBack制御と言いますし、
予測のみで操作する量を与える考え方を、Feedforward、またはOpen制御と言います。
日本語の固い制御よりも、英語のcontrol の方が、ピッチャーの投げる球の位置をコントロールする等、よく使われるかもしれません。
野球の投手の場合は、ボールが手を離れるまでは、ボールの初期位置や初速度、回転などを人間が制御しますが、放たれた後は、物理法則に従い、人間が、遠隔操作で軌道を修正したりすることはできません。
一球投げる動作だけを考えると、これはOpen制御に近いものです。
それに対して、体操の平均台倒立や、飛行機の航行は、それぞれ人間や、飛行機の状態を知り、目標位置になるようにバランスしながら運動します。
これはFeedback制御そのものです。
当然、人間には重力が、バランスを崩す外乱となりますし、飛行機の航行は、風などの気象によって目標航路からずれるような働きの外乱となります。
外乱を一回だけ予測して、それに合うように身体やものを操作できる場合もありますが、大概は
脳の加速度を検出する働きや、レーダーや方位磁石の方向と通過位置を、繰り返し確認しては補正操作することで、倒立で長時間バランスを維持できたり、目標航路を辿って飛行することができます。
Open制御との一番の違いは、常に目標と現状のずれを確認して操作することで、外乱に対して影響を受けにくくなることです。
このFeedbackの考え方は、一部の工学的アプローチですが、もともと自然物理現象の一部に着目したものでありますので、ひょっとしたら、気象など、時間や場所の過去の情報が原因となって、現在の結果となる、因果律の現象を説明できるのかもしれません。
何故FeedBack制御を取り上げたかと言いますと、人の生活や仕事の考え方も、FeedBack制御の要素が関連しているのかと考えているからです。
例えば、一番それらしいものが、経済学の需要と供給のバランスなのかと思います。
物の貨幣価値は、人の需要と供給のバランスに左右されますし、人間がどうすることもできない、気候変動などの外乱要素によって影響を受けるし、その結果、人間の活動として影響を最小限にするようなアクションがなされるからです。
もっと一般的なのは、社会人になると仕事の進め方は、PDCAサイクルをまわすといったのが
最も典型でしょう。日本が世界に品質を誇った、トヨタ自動車の「カイゼン」の考え方もその一例だと
理解しております。
私が病に陥る前は、どちらかと言うと、後ろを振り向かずとにかく前へといった状況でした。
いわば、ある程度ヤマを張った計画と実行をしていたかもしれません。
でも、今考えるとそれは、火事場の馬鹿力での一発勝負のやり方で、長期戦や、ヤマを外したときのリカバーが難しくなる考え方だと思います。
私が思うのは、ヤマが外れたから失敗で、それを抱え込んでしまっては何もならないです。
むしろ、失敗からどのところが、目標から外れていたか、どの時点で確認すれば、修正が可能であったか、どのように修正することができたか、また今、目標とのずれをどの程度あり、修正にどうやってアクションをとるかと考える、実践することが重要なのではないでしょうか。
これをしないと、何度も同じように失敗して信頼を失うかもしれません。
まさにこれはPDCAサイクルなのです。
仕事も一日の過ごし方も、振り返る時間を作る。
時間がなければ、振り返る材料がわかるように、今日の予定と実際やったことを簡単にメモすればよいのだと思います。
小さなことかもしれませんが、小さな振り返りから得た進歩、それを何年も継続していくと、
地に足の着いたような実力として、大きな進歩につながります。
ただし、目先のことだけ追っていることを推奨しているわけではありません。
PDCAサイクルは、大きな目標に到達するために、途中の過程を逐次照らし合わせて
アクションをとる手段です。
結果には必ず原因があるわけですから、ありの目、鳥の目で目標のステップを考えるように
すれば良い訳です。
途中の過程に到る目標を変えることも有りですし、状況によっては、大きな目標自体も見直すこともありだと思います。
制御理論にも、目標値のステップ応答という考えがあります。目標値が急激に変化する一番厳しい評価尺度として定義されております。
これと同様に、現実とかけ離れた大きな目標との差を短時間で埋めようとすると、
自分の行動できる器がかなり広くないと、結果として大雑把なアクションで不安定になります。
砂漠や沼地に、基礎工事なしで、お城を建てるようなものです。
最近は、「競争」を印籠の如く結果を、急き立てられることが多くなりました。でもこれはどこまで
やり方として的確なのかは、疑問に思うことがあります。
むしろ、場当たり的、投げやり的なアクションの結果至上主義で、結果として上手く達成できても、疲労困憊で、長期戦には耐えられないでしょう。
私が、最近「うつ」が取り正されている背景には、戦略なき手段の中で、時間だけを露骨に圧力かけて追い込むような、仕事の進め方があるのかと思います。
圧力ではなく、正直ベースの交渉を基に、利害がトレードオフとなる戦略を、両者で考えて進める
のが正しいやり方なのではないでしょうか?
例えは悪いですが、旧日本軍の竹やりで、米軍戦闘機を打ち落とすようなことを、正当化はできませんが、目先のことしか考えないと、他人事ではなくなりますよ。
むしろ時間を急ぐならば、目標と手段の過程をより明確にする。
PDCAサイクル期間を細かくすることが、結果として成功の早道になるのかと考えます。
詳しい理論は、理工学図書にいろいろありますが、一読された方ならご存知ですが
とにかく、数学の教科書?と思う位、数学を用いた工学的アプローチを実践された
学問で、一般的に、なんのこっちゃ?と言うように思います。
私も大学の講座で受講したときは、そんな感じでした。
「そんなもの人に奨められるの?」 と疑問をもたれないように、次からは一般的な事に
照準を合わせて説明します。
簡単に言いますと、
「制御とは、狙った場所、速度、力などに対して、もの(あるいは事)を的確に追従するように、目標と現状との差を逐次確認した結果から、物事を操作することです。」
特に、目標と現状の差から操作する度合いを調整する考え方を、FeedBack制御と言いますし、
予測のみで操作する量を与える考え方を、Feedforward、またはOpen制御と言います。
日本語の固い制御よりも、英語のcontrol の方が、ピッチャーの投げる球の位置をコントロールする等、よく使われるかもしれません。
野球の投手の場合は、ボールが手を離れるまでは、ボールの初期位置や初速度、回転などを人間が制御しますが、放たれた後は、物理法則に従い、人間が、遠隔操作で軌道を修正したりすることはできません。
一球投げる動作だけを考えると、これはOpen制御に近いものです。
それに対して、体操の平均台倒立や、飛行機の航行は、それぞれ人間や、飛行機の状態を知り、目標位置になるようにバランスしながら運動します。
これはFeedback制御そのものです。
当然、人間には重力が、バランスを崩す外乱となりますし、飛行機の航行は、風などの気象によって目標航路からずれるような働きの外乱となります。
外乱を一回だけ予測して、それに合うように身体やものを操作できる場合もありますが、大概は
脳の加速度を検出する働きや、レーダーや方位磁石の方向と通過位置を、繰り返し確認しては補正操作することで、倒立で長時間バランスを維持できたり、目標航路を辿って飛行することができます。
Open制御との一番の違いは、常に目標と現状のずれを確認して操作することで、外乱に対して影響を受けにくくなることです。
このFeedbackの考え方は、一部の工学的アプローチですが、もともと自然物理現象の一部に着目したものでありますので、ひょっとしたら、気象など、時間や場所の過去の情報が原因となって、現在の結果となる、因果律の現象を説明できるのかもしれません。
何故FeedBack制御を取り上げたかと言いますと、人の生活や仕事の考え方も、FeedBack制御の要素が関連しているのかと考えているからです。
例えば、一番それらしいものが、経済学の需要と供給のバランスなのかと思います。
物の貨幣価値は、人の需要と供給のバランスに左右されますし、人間がどうすることもできない、気候変動などの外乱要素によって影響を受けるし、その結果、人間の活動として影響を最小限にするようなアクションがなされるからです。
もっと一般的なのは、社会人になると仕事の進め方は、PDCAサイクルをまわすといったのが
最も典型でしょう。日本が世界に品質を誇った、トヨタ自動車の「カイゼン」の考え方もその一例だと
理解しております。
私が病に陥る前は、どちらかと言うと、後ろを振り向かずとにかく前へといった状況でした。
いわば、ある程度ヤマを張った計画と実行をしていたかもしれません。
でも、今考えるとそれは、火事場の馬鹿力での一発勝負のやり方で、長期戦や、ヤマを外したときのリカバーが難しくなる考え方だと思います。
私が思うのは、ヤマが外れたから失敗で、それを抱え込んでしまっては何もならないです。
むしろ、失敗からどのところが、目標から外れていたか、どの時点で確認すれば、修正が可能であったか、どのように修正することができたか、また今、目標とのずれをどの程度あり、修正にどうやってアクションをとるかと考える、実践することが重要なのではないでしょうか。
これをしないと、何度も同じように失敗して信頼を失うかもしれません。
まさにこれはPDCAサイクルなのです。
仕事も一日の過ごし方も、振り返る時間を作る。
時間がなければ、振り返る材料がわかるように、今日の予定と実際やったことを簡単にメモすればよいのだと思います。
小さなことかもしれませんが、小さな振り返りから得た進歩、それを何年も継続していくと、
地に足の着いたような実力として、大きな進歩につながります。
ただし、目先のことだけ追っていることを推奨しているわけではありません。
PDCAサイクルは、大きな目標に到達するために、途中の過程を逐次照らし合わせて
アクションをとる手段です。
結果には必ず原因があるわけですから、ありの目、鳥の目で目標のステップを考えるように
すれば良い訳です。
途中の過程に到る目標を変えることも有りですし、状況によっては、大きな目標自体も見直すこともありだと思います。
制御理論にも、目標値のステップ応答という考えがあります。目標値が急激に変化する一番厳しい評価尺度として定義されております。
これと同様に、現実とかけ離れた大きな目標との差を短時間で埋めようとすると、
自分の行動できる器がかなり広くないと、結果として大雑把なアクションで不安定になります。
砂漠や沼地に、基礎工事なしで、お城を建てるようなものです。
最近は、「競争」を印籠の如く結果を、急き立てられることが多くなりました。でもこれはどこまで
やり方として的確なのかは、疑問に思うことがあります。
むしろ、場当たり的、投げやり的なアクションの結果至上主義で、結果として上手く達成できても、疲労困憊で、長期戦には耐えられないでしょう。
私が、最近「うつ」が取り正されている背景には、戦略なき手段の中で、時間だけを露骨に圧力かけて追い込むような、仕事の進め方があるのかと思います。
圧力ではなく、正直ベースの交渉を基に、利害がトレードオフとなる戦略を、両者で考えて進める
のが正しいやり方なのではないでしょうか?
例えは悪いですが、旧日本軍の竹やりで、米軍戦闘機を打ち落とすようなことを、正当化はできませんが、目先のことしか考えないと、他人事ではなくなりますよ。
むしろ時間を急ぐならば、目標と手段の過程をより明確にする。
PDCAサイクル期間を細かくすることが、結果として成功の早道になるのかと考えます。
2009年11月23日月曜日
勤労感謝の日に思うこと
昨年の今頃、私はほぼ自宅療養中でした。
気分によりますが、時々外に出られる程度でした。
仕事を一生懸命、つまり「勤労」とは程遠い状況でした。
それを考えると、今復帰出来て、勤労によって、ほどほど生活収入を得られていることは
ある意味幸運なのだと思っております。
最近思うのは、「勤労」で素直に感謝できない矛盾を感じることがあります。
それは、仕事とは他の人達の暮らしに還元していくものが、本質ではないかと
思うからです。
確かに不況で収入などが減り、生活費をつめなければならない状況では、
無理に物品に利益を付けて高値で取引することが難しくなります。
そこで商売の仕方や、もの作りの知恵で、ニーズに応えていくのが本筋だとは
思いますが、最近大手スーパーの直販ブランドの下請けになったがために、
薄利多売を強いられて、廃業に追い込まれた食品加工業者があることをご存知でしょうか。
まさにデフレに起こる負の連鎖が起きているわけです。
その食品業者は、材料の質を落とせば、倒産にはならなかったのかもしれませんが
直販ブランドの安全性や質を裏切る訳にはできず、何も言えず我慢して従った結果だそうです。
過去に、利益追求のために食品偽装を会社全体で慣例的に行った問題がありました。
内部告発や、事故により公に発覚し、社会的制裁を受けたわけですが。
そこまでに到る経緯として、考えさせる時間はあったのだろうか?
不正をしていなくても廃業、不正をしたら更に信頼を失って廃業です。
どちらが勤労する立場としてモチベーションを維持できるのでしょうか?
2つに共通する問題事項として、親会社の命令口調での業務契約や、契約に逆らえば取り潰しと
いった、実際に業務を行う人達の意見や話し合いをする時間を与えていないことかと思います。
まさに軍隊的なトップダウン方式の弊害です。
「時間を与えない」 某国家がそうですが、一番反乱者を押さえつける有効な手段だと聞いております。
本来不況で労働時間の他、自分を考える時間が増えるはずですが、必ずしもそのようにはなっていないのが現状ではないでしょうか?
とにかく、マネージメントされる立場の方は、関係する人達とよく話しあいをしなさい。
そして、立場の下の人が何故そのようになるのかを、相手の立場になって考えて欲しい。
部下に対しては、なるべく自分の時間を作れるように、業務などをマネージメントすることに
注力してほしいところです。
いろんな考えはあるかもしれないが、目の前のことばかり追っていては、何も良くならない
それは、人と人が関係して成果を上げるものだから、とにかく目先の結果よりも信頼関係を
作り上げること。それが今一番必要なのだと思う。
気分によりますが、時々外に出られる程度でした。
仕事を一生懸命、つまり「勤労」とは程遠い状況でした。
それを考えると、今復帰出来て、勤労によって、ほどほど生活収入を得られていることは
ある意味幸運なのだと思っております。
最近思うのは、「勤労」で素直に感謝できない矛盾を感じることがあります。
それは、仕事とは他の人達の暮らしに還元していくものが、本質ではないかと
思うからです。
確かに不況で収入などが減り、生活費をつめなければならない状況では、
無理に物品に利益を付けて高値で取引することが難しくなります。
そこで商売の仕方や、もの作りの知恵で、ニーズに応えていくのが本筋だとは
思いますが、最近大手スーパーの直販ブランドの下請けになったがために、
薄利多売を強いられて、廃業に追い込まれた食品加工業者があることをご存知でしょうか。
まさにデフレに起こる負の連鎖が起きているわけです。
その食品業者は、材料の質を落とせば、倒産にはならなかったのかもしれませんが
直販ブランドの安全性や質を裏切る訳にはできず、何も言えず我慢して従った結果だそうです。
過去に、利益追求のために食品偽装を会社全体で慣例的に行った問題がありました。
内部告発や、事故により公に発覚し、社会的制裁を受けたわけですが。
そこまでに到る経緯として、考えさせる時間はあったのだろうか?
不正をしていなくても廃業、不正をしたら更に信頼を失って廃業です。
どちらが勤労する立場としてモチベーションを維持できるのでしょうか?
2つに共通する問題事項として、親会社の命令口調での業務契約や、契約に逆らえば取り潰しと
いった、実際に業務を行う人達の意見や話し合いをする時間を与えていないことかと思います。
まさに軍隊的なトップダウン方式の弊害です。
「時間を与えない」 某国家がそうですが、一番反乱者を押さえつける有効な手段だと聞いております。
本来不況で労働時間の他、自分を考える時間が増えるはずですが、必ずしもそのようにはなっていないのが現状ではないでしょうか?
とにかく、マネージメントされる立場の方は、関係する人達とよく話しあいをしなさい。
そして、立場の下の人が何故そのようになるのかを、相手の立場になって考えて欲しい。
部下に対しては、なるべく自分の時間を作れるように、業務などをマネージメントすることに
注力してほしいところです。
いろんな考えはあるかもしれないが、目の前のことばかり追っていては、何も良くならない
それは、人と人が関係して成果を上げるものだから、とにかく目先の結果よりも信頼関係を
作り上げること。それが今一番必要なのだと思う。
2009年11月21日土曜日
デゴイチの復活(水上にて)
昨年度、不慮の故障により復活が危ぶまれたSLデゴイチが、今年秋から修理が完了して、旅客臨時列車のイベントに復帰することになりました。
かつて20世紀半ばの日本の輸送を支えてきたSLですが、現在の電車などに比べると、非力でメンテナンスの多さ、多くの煙を出すなど、非効率な理由で、鉄道の第一線から退きました。
現在は、新幹線と平行し、在来線ダイアの余裕のある線区で、イベントとして走行する場面が主体ですが、幅広い年齢の方から、人気を集めております。
私の主観ですが、やはり自動車のエンジン等もそうですが、動力を発生する様子や、大型のボイラー、蒸気パイプが機体に張り巡らせられていることや、ドラフト音などが、心臓を持った機械の如く人間的な魅力があるのかもしれません。
電車や新幹線では、あまりこのような魅力ありませんですね。
SLの釜のメンテナンスは、簡単に数式だけで説明ができない難しさがあると聞いております。
メンテナンスできる機関師や運転手も、少ない訳ですし、修理部品もなかなか無い状況ですが、
不屈の尽力によって、予想より復帰が早まったことはなによりです。
私もいろいろな人付き合いが毎日ありますが、SLと同じように考え方は人それぞれで、一意に理屈で説明できない難しさはあります。
だけど、コツコツときちんと正面を向きあって会話を積み重ねていけば、お互いの理解や、より力強い関係を導くことができるのでは、と思っております。
なかなか、本音で心を開くことは大変かもしれませんが、ボールを投げなければ戻ってこない
そう考えています。
かつて20世紀半ばの日本の輸送を支えてきたSLですが、現在の電車などに比べると、非力でメンテナンスの多さ、多くの煙を出すなど、非効率な理由で、鉄道の第一線から退きました。
現在は、新幹線と平行し、在来線ダイアの余裕のある線区で、イベントとして走行する場面が主体ですが、幅広い年齢の方から、人気を集めております。
私の主観ですが、やはり自動車のエンジン等もそうですが、動力を発生する様子や、大型のボイラー、蒸気パイプが機体に張り巡らせられていることや、ドラフト音などが、心臓を持った機械の如く人間的な魅力があるのかもしれません。
電車や新幹線では、あまりこのような魅力ありませんですね。
SLの釜のメンテナンスは、簡単に数式だけで説明ができない難しさがあると聞いております。
メンテナンスできる機関師や運転手も、少ない訳ですし、修理部品もなかなか無い状況ですが、
不屈の尽力によって、予想より復帰が早まったことはなによりです。
私もいろいろな人付き合いが毎日ありますが、SLと同じように考え方は人それぞれで、一意に理屈で説明できない難しさはあります。
だけど、コツコツときちんと正面を向きあって会話を積み重ねていけば、お互いの理解や、より力強い関係を導くことができるのでは、と思っております。
なかなか、本音で心を開くことは大変かもしれませんが、ボールを投げなければ戻ってこない
そう考えています。
2009年11月3日火曜日
今日は寒かったでした。でも足湯は効きますね。
もう11月になってしまった。このコラムを書き始めた頃が、まだ年明けくらいだったので
時が過ぎるのが早く感じます。
つい最近まで、上着なしで問題なしでしたが、先週末からはあっとゆうまに
上着とセーター等が欲しくなりました。
今日は特に、昼間も気温が上がらなかったそうです。
私は、群馬県の水上へ、温まりに行っていました。
高速道路から見ると、浅間山や榛名山に冠雪がはっきり見えました。
どうりで寒いわけですね。
また、水上の温泉地に行くと、昼間でも気温が5℃、時にはみぞれにもなる
冷たい雨も降っていました。あっとゆうまに冬支度が必要になりました。
寒くなると、どうしても身体が固くなってしまいますが、寝る前に、手足をお湯で
温めるだけでも、随分寝つきが違います。これはお勧めします。
時が過ぎるのが早く感じます。
つい最近まで、上着なしで問題なしでしたが、先週末からはあっとゆうまに
上着とセーター等が欲しくなりました。
今日は特に、昼間も気温が上がらなかったそうです。
私は、群馬県の水上へ、温まりに行っていました。
高速道路から見ると、浅間山や榛名山に冠雪がはっきり見えました。
どうりで寒いわけですね。
また、水上の温泉地に行くと、昼間でも気温が5℃、時にはみぞれにもなる
冷たい雨も降っていました。あっとゆうまに冬支度が必要になりました。
寒くなると、どうしても身体が固くなってしまいますが、寝る前に、手足をお湯で
温めるだけでも、随分寝つきが違います。これはお勧めします。
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