2009年3月22日日曜日

Photograph はなぜ写真と訳されたのか?

こんにちは、一日一笑です。
外は大荒れの天気です。春の嵐でしょうか?
こんな厳しい時でも、東京の街をマラソンで盛り上がっております。
目標はひとりひとり違うですが、何か苦しい時を乗り越えられたときの
充実感などがあることを、望みます。

 さて、私は休養時に、カメラと写真を使う機会が増えました。
それは、いままであまり興味がなかったのですが、プロ野球を観戦したときの
選手やコーチ、監督の様子を追ってみると、テレビとは違う奥の深さに
興味を持ったことでした。
 ただ、それには撮影の技術がついて行っていないため、多くの失敗写真から
「どうやったら!、基本からやってみよう!」と言う気持ちになりました。

 1年近くやってみると、大分成功率が上がり、他人に御見せできるものも
増えてきました。
 そこで、新たに疑問に思ったのは、日本語では Cameraを写真機、
Photographを写真と訳します。

 なぜ「真を写す」と書くのでしょうか? 

ちなみに中国語では、照機、照片という漢字で訳されます
どこにも真と言う文字はありません。

 江戸時代に人物の肖像写真をカメラで撮影された現像をみて、
初めてそれを見た日本人はあまりにもそっくりなので、魂を抜かれるものと
考えられた逸話はあります。
おそらくそれに由来していると考えます。

 私がカメラを勉強してみて感じたのは、同じ被写体でも、撮影位置、
視野角(広角、望遠)、ピント(焦点深度)全体の明るさ等を変えただけで、
全く異なるものに見えることです。

 また、動きのあるものは、露光時間や、ズーミング、流し撮りなどにより
印象が全く変わります。

 Photograph(光の描く図や絵)という表現は、実に的を得ており、
写真という言葉は、Photographの一部の意味なのではないでしょうか

私にとっては、カメラ内に光が入ってくるものを真に写している。
だからカメラの目の向け方で印象が変わるのは当然。
むしろどこに目を向けるかの心を表わしているもの、つまり漢字で書くと
「写心」なのではないかと考えております

 そもそも、実空間は3次元であるのに、一つ目で平面の絵にすること
事態が、真ではありません

 ジャーナリストの戦争写真などは、事実により近いことを表現することに
注力していますし、記念写真などの人物写真などは、一部より綺麗に見せる心
がけが入ります。
 また、悪い例ですが、盗撮などは、心を写す典型的な例なのではと思います。

 日本人はカメラ好きが多いですが、写真が写すものに対して、何がよいのか悪いのかの
判断基準に絶対基準は無いはずです。
よく写真展覧会で、ケチを付ける方もいますが、本質的にどうでもよいことです。

 私が心がけているのは、何かを後で見て思い返すことができるように、
もの、人などを撮影することです。
そのことで、シャッターを押すことに集中することができたのではないかと
考えております。
そのときどう思ったなど必要に応じてメモを入れたりします。
 勿論できるだけ、事前に許可をもらったりするマナーにも心がけています。 

 最近勘違いされていると思うのは、撮ることに意義があるという風潮です。
盗撮などまさに典型ですし、不特定多数に押し付けがましく公開するのはどうかと
思います。
 必要なのは、撮ったものを、謙虚な気持ちをもって後で見かえすことだと思います。

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